昭和52年12月19日 朝の御理解



 御理解 第65節
 「日柄方位は見るにおよばぬ。普請作事は、使い勝手のよいのが、よい家相じゃ。よい日柄というは、空に雲のない、ほんぞらぬくい、自分に都合のよい日が、よい日柄じゃ。いかに暦を見て天赦日じゃと言うても、雨風が強うては、今日は不詳のお天気じゃと言うではないか。日のお照らしなさる日に良い悪いはないと思え。」

 この六十五節にある御理解が、すっきりと自分の思い方の上に頂けるようになったら、御道の信心を、すっきりと頂いたと言う事になると思うのです。勿論だからおかげも、すっきりしてくる事でしょうし、生きる目当ても違ってくるでしょうし。日常がいわゆる、本当の信心生活の有難さ、楽しさを分からせて頂く。言うならまぁ何時もが有難いという事になると思うのです。これがただ話を聞いて、なるほどと合点がいっただけではなくて、すっきりと、自分のものになると言う事なんです。
 ですから信心を頂いておりましても、その教えを頂かないと、それを行の上でもそれを頂き現して、なるほど教祖様の仰るとおりだなと。日柄もなからなければ方位もない。もうそれこそ自由かってたるべしと言う様な、神様の大きな心に、添うて行くと言う事が、人間のまぁ幸福な生き方であり、道だと言う事を分かる。それがすっきりとする。というのがほんなら日柄方位とか、又は普請作事と言った様な事だけではなくて、生活の全てがねそういう頂き方。
 それをどう言う事に言うかと。人間関係経済問題、又は病気なら、病気の問題。まぁそれが難儀の様相となって、形になって現れてくる。それをねその難儀の様相と見ない。それを泉尾の先生の頂き方で言うならば、御神願有り難うございますと言う、すっきりとした、頂き方なんです。だからそういうところまでが、すっきり出来てくると思うんです。教祖様のお言葉を信ずると。教祖様のいうなら御教えを頂くと言う事は。それだけすっきりする頂き方。
 これは日柄とか方位とか、天候とか又は普請作事とかと言う様な事だけではない。そう言う様な事が、教祖様のお言葉を信じて、それを行の上に現していくとです。なるほど日柄も方位もあるもんじゃないな。今まではそれに縛られておった事が、人間を窮屈にしておったんだなと言う事が、体験されなければいけません。だからそれと同じにです。他の御教えの全てもすっきりと、ほんなら頂けると言う事です。そのすっきりと頂けると言う事はどう言う事かと言うとです。
 言うなら神願有り難うございますである。そこには一つも困ったとか、難儀と言った様な事ではない訳です。そこでほんならそれが分かったから、その神願であると言う事が分かったからと言うて、ほんならすっきりするもんじゃないです。だからそれがすっきりする事の為にです。これはこの今日の六十五節であっても、他の御教えの全てがです。本気で改まり本気で磨いた、いわゆるこちらの心が、すっきりした心で頂かなければ、すっきりと入って来ないです不思議に。
 もう十年以上になりますかも知れません。秋永先生とこの奥さんがお夢を頂いた。それは自分が将来宝石商と、毛皮商を営む様になるというお知らせであった夢の中で。あの人は非常にあの毛皮が好きであり、宝石はもう本当に大変好きな人なんです。もう一遍ここに全部持って見えて、見せて貰ったんですけれども、こんな大きな箱に宝石が一杯。まぁ良いのか悪いのか知らんけれども。それこそもうそれこそびっくり致します。こげん買うなら何時でん金の足らんはずたいと言うごと、沢山宝石屋さんのごたるです。
 やっぱ趣味道楽で買う訳ですね。だからその自分の性分にぴったり、宝石商やら毛皮商やら合うという訳なんです。そして今でもやっぱ、そんな風に思うとりなさるとかも知れんけれども。実際はそげな宝石商とか、毛皮商と言う事じゃないと。自分の心のなかにある、それこそけだものにも等しいような心を改まっていく事。自分が脱皮をしていく事だと。宝石商と言うのは、それこそ自分の心が光り輝くように、それこそ本心の玉が光り輝くようになる事なんだ。
 そこからお徳が受けられる。毛皮商やら宝石商をしろと言う事ではなくて。自分自身の心の中にです。自分が脱皮に脱皮を重ねて、それこそ人面獣心と言う様な事は、特別の悪人の上に言う事の様ですけれども、私共の心の中にもやはり、そういう心がある。勿論心が光るどころかもう心が、言うなら垢に汚れて鈍いまぁ事に、いわゆる鈍になってしまっておる。それが光り輝くようになるために、磨かなきゃならんのであり、改まらなければいけんのであり。
 そういう脱皮に脱皮を重ねて、たくさんの言うなら毛皮が出来る。磨きに磨いて自分の心が、ピカピカ光る様になる。光を放つ様になる。そこにはいよいよ毛皮商であり、宝石商でありそこに言うならば、どうしてこういう難儀を解決して行く事が出来るでしょうか、と尋ねてくる人が出来てくるようになり。私はそういう難儀を感ずるたんべんに、これは人じゃない自分だと思うて、脱皮していきましたと話をすれば、今度は話を聞いた人が助かる。どうしてこの心がこの様に、いらいらしたり腹が立ったり。
 淋しかったり悲しかったりするのでしょうかと。私もそういう時代がありましたけれども。もうその度にその事を通してその問題を通して、自分が改まることに磨くことに、一生懸命ならせて頂きましたら、あれもおかげであった、これもおかげであった。いわゆる一切が御神願であったと言う事を分からせて頂いて、そこから安心の生活が喜びの生活が営まれる様になりましたという時が、宝石商になった時であり。毛皮商になった時ではなかろうかと言うて、お話致しましたけれども。
 それがどこまで分かったか分からんけど。けども確かにお互いの上にもそうなんです。毛皮商であり宝石商が、営まれるほどしのおかげを頂きたい。自分が脱皮を重ねていくと言う事によって。そこに難儀苦労の様相と言うものの中から。本当に有難い、勿体ないの生活が出来るようになる。私はそういう信心が出来ていかなければですね。あの日柄方位とか。普請作事とかというなら観念の中に、そういうものがあるわけ。今まではやはり日柄も見てきた。家を建てるならなんて言うですか。
 やっぱり家相なら家相を見てきた。そういうものがねすっきりと、自分の心からいわばおかげを頂くと言う事が、脱皮に脱皮を重ねて初めて、教祖様のお言葉が本当だと言う事を、自分で実証した時に始めて、本当な意味でのすっきりした。言うならばこの世はまぁ苦の世だ、苦の世界だと言う見方ではなくて、もう本当に神愛満ちあふれた世界であると言う事に気付かせてもらい。それを信じさせてもらう生活がですね。日々何時もが有難いのだと言う事になるのじゃないでしょうか。
心行とは不平不足を言うてはならぬ。暑い寒いを言うてはならぬ。一切が神願御神願の成就である、その働きであると頂いた時にです。不平やら不足やらの影は、かげりもなくなって来るでしょうし。暑い寒いを言うてはならぬと言うのは、これは天候だけのことではありません。暑いこともおかげなら、寒いこともおかげと言う事が、すっきり分かってくると言う事は、天候だけのことではない。暑い寒いと言う事は、自然の働きと言う事なのである。その自然の働きの中にです。
 私共が損をしたの得をしたのと言った様な事もあったり。まぁ言うならば理不尽な事を、自分が甘んじて受けなければならないと言った様な事もあるけれども。その自然の働きそのものが、神様の働きであると分かった時にです。成程暑いの寒いのと言う事は要らん、ただ有難い有難いと言うておれれる心の状態が出来てくる。それがすっきりしたと言う事になるのじゃないでしょうか。まぁ具体的に申しますと、もう本当に訳は分かりませんけれども、神様の働きの中にあるという事が、この分かります。
 実感いたします。どういうご深慮ご真意と言う事は分らんにしても、神様がおかげを下さろうとしておる働きである事だけは、分かりますと言う所まで、行かなきゃいけん。昨日朝の御祈念の後に、善導寺の原さんが、昨日はあぁたもうまぁ有難いというか、不思議なというか、昌一郎がその外へ出まして、何時もお仕事の上で関係のある、田村さんという人とその人が、原さんあたしげん神様ばあんたが頂いてくれんかち言わっしゃる。そのなしかち。自分の姉になる人が御道の先生しとった。
 そしてあるところで教会を開いたけれども、道が開けずにとうとう止めてしもうた。それで道具が沢山あるからあんたげ、金光さんの信心しござるけん貰うちくれんのち。それで私は恐らくその昌一郎さんから聞かんけれども、はぁこりゃ神様のご都合じゃろう。どういう深い意味があるか分らんのです。しかもたまたまその、原さんの所にそのだから車で二遍も、その道具を貰いに行ったち。それが八足がありお三方なんか、二十五台もあるげな。そらそうでしょう教会しちゃったつじゃけん。
 ようと思いよったら、ほんに椛目の時分に、親子でちょっと修業にきとった人があるです。どっか矢部かどっかの教会の出社で、出たけれども全然人が助からないと言うので、合楽にまぁ久留米関係なんですやはり。どうもその人のほんにその人が、田村さんち言いよったと思いましてね。とうと止めなさったばいなと思ったんですけれども。そういう働きが分らんのですどう言う事か。けど私、原さんにもうあんた方には、その御結界に何でんあるげなもん。
 だかあすけ御結界にすえて、あんたが座りなさいち、私が言うてまぁ言うた事でした。あぁたならもう人が助かるよと。もうそれこそまぁ毛皮商とまでは行かん、宝石商とまでは行かんけれども、本気で毛皮商になろうと努めてござる。もう脱皮に脱皮を本当にもうこれが、十年前なら十五年前ならば、とてもとてもこげな状態でおれる事ではない、心の状態がもうそれこそこう。脱皮していくたんべんに、有難い世界が広がって行きよる。それこそ改まりに改まり磨きに磨き。
 まぁびがびがするごと光りよるとは言えんにしても、信心とはもう本心の玉を磨くこと以外には無いと思い込んでござる。おかげでほんなら、娘がその信心の言うならばを受け継いで。御道の教師にでもなろうかと言うて、今御本部で修行中であるという様にです。いうならば毛皮商になり、宝石商になれる言うならばその前の段と申しましょうかね。まぁお芝居で言うならば、そのそういうねところを今辿っておられる。何とはなしに神様がいよいよ、宝石商を目指せよ毛皮商を目指せよと言わんばかりに、そういう店作りの道具まで集めてござるという所にです。
 もう本当の事は分からんて実際は。けれどもその働きに、やはり感動せずにはおられない。有難い不思議な働きの中にあるなと思わずにはおられないという訳なんです。そういう働きがです。合楽の方達の場合には、みんなそういう言うなら、朝の御祈念にでもお参りなさっておられる、合楽の中心をなそうと言う様な信者さんであるならば、先ずはそこん所を体験して行っておられると思うのです。そしていよいよすっきりとしていく状態を、自分でも大認していかれておる。
 ところが実際問題になってくるとです。やっぱ日柄も見らにゃいかんごたる気持ちが起ったり、やっぱ折角家建つるなら、やっぱ家相もそれと親先生に言うとおごられるけんで、ちょいとこっそりと見て貰おうかというごたる人もあるんですやはり。もうそげなこつ聞いてから、がっかりするこつがあるです私も。けれども、すっきりせんからやっぱり、見ござったり聞いたり調べたりしござるとじゃん。結局本当のいうならば、本心の玉を磨くことにも、改まると言う事にも、そのまだ過程であるからだと言う事。
 そして本当にいうならば。心行一途と言われておる。心行とは不平不足を言うてはならぬ。言うまいと思うけども、不平不足を言わにゃならん様なことが起ってくる。それをどっこい神願有り難うございますと頂けるところまで行っていないという事なんですね。もうだからぎりぎり、その今申しますような所をです。いよいよより本当なものにしていくと言う事をです。本気にならにゃいけない。
 昨日研修の時に、ここの先生方に話したことでしたけれども。現在合楽がまぁ有難い意味で、全国まぁ津々浦々というと、過言かも知れませんけれども。昨日北海道の札幌それから、東京の言うなら九州で言うならば、九州の桂先生と言われる、東京の秦徳三郎先生の、日本橋教会の教会長先生から、お手紙が来ておる。まぁ私は昨日その手紙を、山本先生から、ここへ持ってきましたから、見て神様の本当今の話じゃないけれども、働きのこう言う不思議な働きのあっておる中での事だからと言うのです。
 この前の報徳祭に先生が参って、まぁ私のそばに付きっ切りで、いろいろ御用してくれた。御大祭の時にはもうここは必ず、合楽の先生の席だと言うように、一番真正面の中心に、まぁ席を取らせて頂く。その横に山本先生がぴったり、それこそ寄り添うて御用し奉仕しておる。それをどこからかその、秦先生がご覧になっておった訳です。そして確かにあの正面の中央に座っておられたのは、合楽の大坪先生と思うが。
 その横に山本先生あぁたが居ったが、遠くから見てから見違いかも知れんけれども、確かにそうだったと思うが、もし合楽の教会と、何か係わり合いがあるとするならばです。今度合楽から出ておる御理解感話と、合楽理念を語るという本が出ておるそうだから、それを何とか入手して、送ってくれないかという手紙が来ている。もう大変な教学の大家でもあるし、言うならば日本の中心をなす先生ですね。秦徳三郎とか又は佐藤宿老とか、近藤藤守とかと言う、当時の教祖様の直信のお教会なんです。
 それを九州で言うならば桂先生。という様なあのいうなら、由緒のある教会の先生方がです。合楽の信心を本気で見直そう、又は頂こうという、そういう只中にあるのです。北海道の札幌の先生もやっぱりそうでした。もう遠方だから、先生にじかにその教えを頂くことは出来ないけれども、いわばおかげの泉を、愛読させて頂いてそれでもやっぱり、ご本だけで分らないところもあるが、合楽示現活動に参画すると言う事は手続きが違っても、参画出来るものでしょうかと。
 出来るものならば参画させて頂きたい。そしてもしご質問を申し上げることに返事をいただけるならばと言うて、三つのまぁ難しい質問をして見えておられました。という様にです。もう本当に合楽理念に基づく生き方というものが、確かにこれが本当だろうと皆が見てきた。昨日は夕べ遅う本部から、電話が架かってきて、佐田先生の弟が教務所に勤めておる。それが今日は全国の議員の先生方の会議があった。その中で宮崎地区から来ておる先生が、その、宮崎が今合楽に荒らされておる。
 その手段手立てを本部でも何とか考えてくれといった意味のことを話を出されたけれども、それが全然本部のほうで、相手にしなかったと言う事を聞いて、まぁ嬉しかったからでしょう、すぐ兄さんにその事を電話掛けてきております。自分もその会議に出てました。だから合楽の生き方がね、何とかかんとか言われながらも、本当言うたら、取られるほうが悪いんだと、荒らされるほうが悪いんだと。と言うてほんなら恐らくは、ほんなら合楽の大坪が荒らしまわっていると言う事はないだろう。
 やはり人が助かるから集まっておるのだろうと言う様な見方が強うなってきた事を感じられます。そこでですそういう問題のなかにある。そういう皆の注目のなかにある。最近のほんなら中近畿の、大阪あたりがもうとにかくどうでもこうでも、合楽の信心を頂きたい。そしていわば今の金光教の立て直しは、合楽理念をもってする他なかろうごたるという所まで行っている。
 それは今ここで修行しております人達の場合。先日その前の日に基山教会の御大祭に、末永先生が請われて、大祭に行っております。そしてそこでまぁ大変素晴らしいお話を、二時間にも渡ってお話を聞いて来て、そして合楽で言っておるところの、表行を全廃して心行一筋。その先生は三十年間苦労をされて、十年間も海の中につかる修行をさせて貰うて、そういう表行がいかに金光教的でないかと言う事が分かると同時に、金光教ではもう。表行もなければ心行もない。
 ただあるのは教祖生神金光大神様、あなたのおかげで助かっておりますと。これだけしかないてこう極言される。と言う事は金光大神様、あなたのおかげで助かっておりますという、四六時中金光様をこれに頂くと言う事なんだから。合楽で言うておる心行と同じなんである。それを三十二年間に渡っての難儀、いうなら難行苦行の中にそこまでに到達して、現在は段々信者も出来て。まぁおかげを頂いてご長男には、金光様のお嬢様を頂かれるというほどしの、まぁ御本部からのご信用も受けられた。
 私のほうには信者は少なくて、まぁ三十家族しかないけれども、今度五十五年の記念祭をした時にはその三十家族の者が、一人平均五十万ずつのお供えが出来るようなおかげを頂いておるという話をなさったそうです。いかに教導が厳しくて素晴らしいかと言う事が分かります。その話を本当にもう息も継がれん位に、二時間ぶっ通しでお話になって、まぁ素晴らしいお話だったと頂いたけれどもです。頂けば頂くほど合楽理念がもっと素晴らしいことを、より分からせて頂いたと言うております。
 例えば海の中にももう十年つからんでも、三十年もかからんでも自分自身が体験させて頂いて言葉の分からない、通用しない言うならブラジルあたりででもです。合楽理念を持ってするならば、人が助かるんだと言う確信を、そういうものをふんまえておるから、どんなに素晴らしい話だけれども、いよいよもって合楽理念の素晴らしさが分かったと言っております様にです。だから私は昨日修行生の方達に、合楽で修行するなら五年も十年もと言う事は決して要らんよと。
 本気でみっちり一年間なら一年間、合楽理念をマスターしてそれを行の上に現して行く生き方はです。苦しいことじゃない。あなた方はそれに専念しておるのだから。いわばそれが有難いもんだ、楽しいもんだそしてたまには、愉快にもなれれるんだと言う、体験を持つところから安心が生まれる。一本の傘が与えられる。その一本の傘を持って出るのだから、二年三年例えば修行するなら立派に。言ったらもう苦労せんですむおかげが頂けれると言う事を、私は昨日申しました。
 だからなんがりなんがりという勢じゃなくて、もうそれに一つもうここは、合楽理念をもって、心行とはと心の中に頂き続けて。ひとつ本気でひとつ修行しなければいけないよと申しましたが。これはほんなら修行生の先生だけのことじゃありません。お互いが毛皮商、宝石商をいっちょ、いよいよ出来るようなおかげを頂いて。為には私はただなんがりなんがりした信心じゃ出来んと思う。本気で言うならば合楽理念に基づく生き方が出来。すっきりと出来た時にです。
 勿論例えば信心しておっても、日柄とか方位とかまぁだ言いよりなさる人達がある。もうそれこそこんな可笑しな話はないて。その辺の所がすっきりと、頂けることでしょうし、ほんなら全ての事柄にもです。心行とは不平不足を言うてはならぬ。暑い寒いを言うてはならぬ。不平不足だんか御礼が言えれるようになる。そのことに対して。そのことを通して脱皮が出来たと言う。その事を通して磨くことが出来たと言うお礼が言えれるね。暑い寒いを言うてはならぬ。天候のことだけの事ではない。
 自然の中に起きてくる、自然の働きその物をです。神願有り難うございますと、すっきり頂ける様になる。そこん所を目指しての信心。それを絶対の道だという訳ですね。だからそのすっきりと頂けれるに従ってです。勿論おかげもすっきりとしたおかげになって来る事は勿論です。六十五節を今日は今申しましたような風に、えらく飛躍しましたけれどもね。まぁ頂いて頂きました。
   どうぞ。